“孫正義がまだ高校生だった時に、藤田田の…..”
今回は日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた でん)のエピソードを解説します。
日本にファーストフードなるハンバーガーを初めて持ち込んだ人で藤田田が実践したユダヤの商法なる成功哲学から発信される言葉は多くの実業家にも多大な影響を与えました。
現在のソフトバンク会長・孫正義もその1人です。
そんな藤田田はどんな人物だったのか?藤田田の生涯を分かりやすく解説しますので最後までご覧ください。
名前の”田(でん)”の由来は?
昭和に年号が変わる前年の大正15年(1926年)3月13日、電気技師の父とクリスチャンの母との間に5人兄弟の次男として大阪千里山(現在の大阪府吹田市の一部)で生まれました。
父・良輔はイギリス企業の日本支社に務めており、待遇も良かったのか藤田家は千里山に大きな屋敷を持ち、当時はベッドで寝るような洋風の暮らしをしていました。
『田(でん)』という名前は母が命名しており、クリスチャンだったことから母は迷わず『田』という漢字を決めたと言います。
その意味は『田』という字は口の中に十字架が入っているから、話すことと食することを神に守ってもらい良い人生を過ごせるという意味でした。
口に十字架を入れておけば人のためにならぬ余計なことは言わないだろうという母親心だったのです。
最初は『でん』ではなく『た』と呼ぼうとしたのですが、父親が、
「ふじた・た、ではおかしい」
と言うので、母はそれなら『でん』にしましょうとなったのです。
藤田田の学生時代
三島郡千里第二尋常小学校(現在の吹田市立千里第二小学校)から、中学進学する際に浪人をするという珍しい経歴を持っています。
浪人した理由は、成績は優秀だったものの母が教師に付け届けをしなかったため内申書をあまり良い表現で書いてもらえなかったという説がありますが、ともかく1年間猛勉強に励み旧制北野中学校(現在の大阪府立北野高校)に入学します。
昭和19年(1944年)太平洋戦争で戦火の激しい大阪を離れ、島根県の旧制松江高校(現在の島根大学法学部の前身)に進学して、自習寮に入りました。
五カ国後を話せた父の影響か、すでにかなりの英語力を身につけていた藤田田は、ドイツ語を学ぶクラスを選択しました。
当時の松江高校は全国の旧制高校の中でもバンカラな校風で荒々しさと汚さでは県下一の高校で有名でした。それだけに自由と革新の気風に溢れた一面が高校にあり、田はこの校風がすごく気に入って馴染んでいました。
そんな学風の応援団長を買って出て堂々と務めあげたのです。肩までかかる長髪に羽織袴、高下駄と誰が見ても応援団とわかる格好で、街中を闊歩していました。
また、田は事あるごとに全校生徒の前で自分の主張を早口の大阪弁で、理路整然とまくしたて、田の弁舌に敵う生徒はいませんでした。
父親からの遺言
その最中に大阪の実家が、B29の空襲で全焼し、父だけではなく、兄、弟、妹とも亡くなりました。母と姉は無事でしたが藤田家は財産のほとんどを失いました。
父・良輔は田に『THE WILL』と題した遺書を英文で残しており、次のようなことが書かれていました。
「戦争はいずれ終わり平和が来ると思います。その場合、田が生きていく上では東大の法学部に進学して政財界に入るか、それが叶わないなら慶王大学の経済学部に進み、経済人になるのが良いと思います。日本は学歴・学閥社会なので、その方が生きやすいと思うからです」
田はこの遺書にかなり影響されたと後の自身の著書で回顧しています。
藤田田の商才
昭和20年(1945)8月15日終戦です。終戦後の日本は全国的に食料難で闇市が横行していました。
学生の田も例外ではなく、父の死は田にとって経済的に極めて厳しい学生生活を送りました。
自ら食料を求める行動を起こさなければならないほど切迫していたのです。
そんな時、田が将来マクドナルドを日本に持ち込む事を予感させる商才を発揮します。
田はツテを頼って島根県の隠岐の島に渡り、町長と交渉をして魚を定期的に寮に納入してもらったり、またインターハイの時には県から木綿の反物をフンドシ用として大量に払い下げてもらい、これを米や魚と交換して学生たちの食料に充てたのです。
GHQでのアルバイト
そして松江に進駐していたGHQに出入りし、通訳のアルバイトに精を出します。
GHQ部隊の設備や食堂を見ると豊かな物資に溢れているのに驚き、日本が戦争に負けたのはアメリカの圧倒的な経済力と物量によるものと確信しました。
昭和は23年(1948)に東京大学法学部へ入学します。
学費も生活費も自分で稼げないといけないので、ここでもGHQ本部の通訳のアルバイトに精を出します。もっと英語を上達したかったので、アメリカ軍宿舎に寝泊まりする毎日を送るようになったのです。
当時の月給は1万8000円。当時公務員の初任級は2800円だったので、かなりの大金を稼いでいたことがわかります。
そのお金で毎晩飲み歩き、時には通訳として進駐軍専用の高級クラブにも出入りを許されるようになりました。
藤田の豪遊ぶりを見かねたクラブのママから土地を買うことを勧められたのですが、この頃の田の商才には土地投資という設計図は浮かばなかったと後に回顧しています。
藤田商店の設立
その後、進駐軍の家庭用家電製品や台所用品などの輸入を始め、東京大学在学中に個人経営の貿易商社『藤田商店』を設立しました。
そして昭和26年(1951年)東京大学を卒業して実業の世界で身を立てる事を決心します。
この頃から商才を発揮していた田は、朝鮮戦争の休戦で倉庫に眠っていた土嚢に目をつけます。つまり土嚢を抱える会社は嵩む倉庫代に苦慮していたから、田はその足元を見るように破格の格安料金で土嚢を買い取りそれを植民地で内乱が起きている国に売りつけるというやり方で大儲けしました。
昭和35年(1960)株式会社に改組します。創立後11年にして、『株式会社藤田商店』の誕生です。資本金4000万円、社員15名の小人数精鋭でスタートします。
ロンシャン、クリスチャンディオールのハンドバックや旅行カバン、衣料品など、流行の最先端商品の輸入を開始、ブランド商品のパイオニア的存在となりました。
ユダヤの商法
さらにGHQのバイト時代に知り合ったユダヤ人のツテを利用して、各国に散らばるユダヤ商人相手の商売で腕を磨いていきました。
田は抜け目のないしたたかな商人の顔を見せる一方、ユダヤ商人の間では信用できる男という評価も得ていました。
田が信用を勝ち取った有名なエピソードがあります。
昭和40年(1965)アメリカンオイルからナイフとフォークを大量に受注します。
1回目は300万本、2回目が600万本の大量注文でした。それを業者に製造を依頼したのですが数が数だけに2回とも納期はギリギリ…ついには納期に間に合わないという事態が起こったんです。
ユダヤ人は世界の経済を握っています。契約が履行できなければユダヤ人との取引ができなくなります。
当時は船で荷物を運ぶのが常識でしたが、田は船便を航空便に変ることを素早く決断して、ボーイング707をチャーターします。チャーター代2000万円を支払い契約期限の前夜には先方の倉庫に約束の品物を納品完了しました。
当時の航空便代は船便と比べるもなく相当に高く、品物の代金だけではとても引き合わない大損でしたが、田は信用を得ることに全力投球したのです。
そして、
という評判を得たのです。
マクドナルド社との契約
昭和44年(1969年)大きく飛躍するチャンスが訪れます。
日本政府は外資法の一部改正を施行しました。
それまで制限されていた日本国内における外国資本によるレストラン事業が完全自由化されたのです。海外の外食チェーン企業が一斉に日本進出戦略を打ち出しました。
田が目をつけたのがハンバーガーチェーンのアメリカ・マクドナルド社でした。
田はそれまで何度も渡米していてハンバーガチェーンの盛況ぶりを実際に見ていたからです。
田は自分の会社である藤田商店シカゴ支社を通じて、アメリカ・マクドナルド社の日本進出計画の情報を入手し、ただちにアメリカに乗り込みました。しかし当然のことながらそこにはもうすでに日本の大手商社、スーパー、大手食品メーカーなどがアメリカ・マクドナルド社と商談を始めていました。
いわば遅れを取ったのです。
中でも熱心だったのがダイエーの中内 功で、もう契約調印寸前の段階まで進んでいたそうです。
結局、田が大逆転勝ちすることになるのですが、その理由がユダヤ人世界での、
という評判だったのです。
その評判がアメリカ・マクドナルド社のレイ・クロック社長の耳に届き、
「そんな立派な日本人がいるなら一度あって話を聞こう」
と藤田田へ興味を示したことがきっかけでした。
マクドナルド社と契約できた理由とは?
なぜ無名に近い田がアメリカ・マクドナルド社と契約できたのか?藤田田の回顧録から一説を紹介します。
「レイ・クロック社長は面白い人だからと紹介してくれる人がおり、何の気なしにお目にかかったんです。したら5分もしないうちに突然お前ハンバーガー店をやらないか?って言うんですよ、名刺がたくさん入った脇の箱を指しながらこれまでに日本人が300人ぐらい来たが、みんなダメだ、藤田お前がやれ」
となったのです。
うまくいったのはレイ・クロック社長に遠慮せず、
「アメリカ人みたいに自分の思っていることをズケズケと物を言ったからでしょう」
と、自身を回顧していました。
ただ、これだけでは余りにも単純すぎる…
回顧には書かれていませんが、藤田田がユダヤ商人仕込みの交渉力と学生時代に磨いた弁論を大いに発揮したことは言うまでもないと思います。
こうしてアメリカ・マクドナルド社と30年契約の合弁会社設立契約を結び期間満了時においても再度の契約選択肢は藤田側にあるという条項を盛り込んだのです。
しかもその時の条件が、
・ロイヤリティは売上高の1%
・合弁会社の経営権は全て藤田田に任される
・マクドナルド社からのアドバイスは受けるが命令は受けない
という当時の経済常識では考えられない好条件を獲得、当時のダイエー中内会長が聞いたら、地団駄を踏んで仰天して気絶するような破格な契約条件を勝ち得たのです。
日本マクドナルドは、昭和46年5月1日に設立し出資比率はアメリカ・マクドナルド社、藤田商店とも50%の比で、田は自ら社長に就任します。
日本マクドナルドの第1号店オープン
日本マクドナルドの第1号点は昭和46年(1971年)7月20日、東京銀座三越のインショップとして開店しました。また、輸入規制によりまだ牛肉が食卓に並ぶことが少なかった当時、ハンバーガーはもちろん100%の牛肉を使用しそれを手軽に食べることができるメニューは考えられませんでした。
当時貴重だったマクドナルドのこだわりである100%ビーフを強く打ち出していったのです。
こうして海外の文化に憧れを抱いた若者を中心に、多くの人が100%ビーフのハンバーガーを食べようと店へ押し寄せました。
休日には銀座歩行者天国でハンバーガーを片手に食べ歩く人が続出します。
この様子はマスコミに大々的に取り上げられ、異国の見知らぬ食べ物というよりむしろ“新しいファッション”としてハンバーガーの上陸を日本中に大々的に広めていきました。
マクドナルドは全国チェーンへ
日本第1号点となる銀座のオープンからわずか4日後に代々木店、その後大井店、新宿二号店と続き、翌1972年から概ね1ヶ月に1店舗のペースで新店舗をオープンしていきます。さらに関東地方を始めとして、関西、中部、四国、九州地方の大都市圏に次々と出展し、全国展開が始まりました。
日本マクドナルドをはじめ、飲食チェーンは競い合うように店舗数を伸ばし、外食産業が大きな市場へと発展していきました。そして外で食事をするという行動は人々にとって当たり前のものとなっていったのです。
マイカーが普及し出すと1977年にドライブスルー1号点を出店。その頃の日本には本格的なドライブスルー方式のレストランはなく、ユニークな販売システムとして大きな話題になりました。
マクドナルドは縄文文化以来の米食民族をハンバーガー消費大国にしました。
マクドナルド以外にも玩具の小売である『トイザらス』、貸しビデオの『ブロックバスタービデオ』、ネクタイの小売『タイラック』といった海外ビジネスを日本に紹介したのも藤田田です。
孫正義との出会い
今では日本のトップ企業とも言えるソフトバンクの創設者・孫正義がまだ高校生だった時に、藤田田のところに訪れたのは有名な話です。
訪問を何度か断られたが、しつこく粘ってくる孫少年に少しだけ会って話をしました。
そんな助言を受けた孫少年はその後アメリカに渡り、コンピューターを学び、帰国後にソフトバンクを立ち上げました。
時価総額数兆円の大企業になったのは、今では誰もが知ってることです。
後に成功した孫正義に食事に招待され、非常に感激し、孫の会社に自社パソコン300台を発注したというエピソードもあります。
藤田田の成功哲学とは?
2003年、藤田田はトップを退任しました。その後マクドナルドは一時の不調もありましたが、コロナ禍でも最高益を叩き出しています。
田のビジネスには共通する哲学があります。
それは勝てば官軍というものです。
『敗者の美学』は文学の世界だけで、ビジネスの世界では百害あって一利なし。文学で飯は食えないし、金儲けはできない。という哲学を曲げず譲らず藤田は生涯を金儲けに邁進しました。
また藤田田といえば『ユダヤの商法』が有名です。
世界の成功者にユダヤ人が多いのは何故なのか?自らユダヤ人と取引をし仕事をしてきた藤田田の目線でその理由が分かりやすく書されてます。
先ほど記した孫正義もその成功者の内のひとりですね。
そんな藤田田は2004年4月21日に78歳で生涯を終えました。
お亡くなりになった今でも経営者や今から起業しようとお考えの若い方など絶大の人気を誇ってる著名人のひとりでもあります。
今回も最後までご覧いただきありがとうございました。