市川中車という名は今は九代目まで受け継がれています。そして現在の九代目市川中車はかつて俳優業として活躍していた香川照之になります。
彼は歌舞伎一家で生まれたのにも関わらず、父親である二代目市川猿翁に反対されながらも俳優の道を進みました。しかし長男である市川團子の誕生をきっかけに46歳で九代目市川中車を襲名し歌舞伎界デビュー、現在に至ります。
そんな香川照之こと市川中車とは、九代目まで受け継がれてきたので、そこには長い歴史がありました。
そこで今回は、初代から九代目についての本名や屋号そして関係性などを詳しく解説していこうと思います。
市川中車とは?
現在、市川中車は九代目まで受け継がれています。市川中車の屋号は、
初代が蓬莱屋、二代目が吉村屋、三代目が橘屋、四代目から八代目までが立花屋、九代目からは澤瀉屋おもだかや。
という流れになっています。ちなみに定紋は大割牡丹であり、替紋は片羽車なんだそうです。
また「中車」は初代市川八百蔵の俳名からきており、初代から六代目までは「中車」を俳名として使ってはいたものの、実際に名跡として襲名することは無かったようです。つまり「初代市川中車」という名は七代目からということになります。
では初代市川中車から、現在の九代目市川中車を順番に解説していこうと思います。
初代・市川八百蔵
初代市川八百蔵は、大阪から江戸に移り「子役の名人」といわれたほど実力がある歌舞伎俳優でした。彼は寛延2年、二代目市川団十郎に入門し、市川八百蔵を名のり立役となったようです。たった30年の生涯でしたが、市川八百蔵として歴史に名を残してくれました。
二代目・市川八百蔵
二代目市川八百蔵は、江戸時代中期の歌舞伎役者でした。彼の結婚相手は、初代八百蔵の妹です。宝暦13年4代市川団十郎に入門し、二代目八百蔵を襲名しました。
三代目・市川八百蔵(二代目助高屋高助)
三代目市川八百蔵は、宝暦から文化の末頃にかけて活躍した歌舞伎役者でした。もともと三代目市川八百蔵と名乗っていたが、文化元年11月、祖父の名である助高屋高助を襲名しました。
四代目・市川八百蔵
四代目市川八百蔵は、江戸時代後期の歌舞伎役者です。彼は、舞踊藤間流の家元初代・藤間勘十郎の弟といわれています。かつて『岩井喜世太郎』と改名し、若女形として舞台を勤めていたことあったようですね。
五代目・市川八百蔵(三代目關三十郎)
五代目市川八百蔵は、幕末期に活躍した歌舞伎役者であり、振付師・三代目藤間勘兵衛の子でもあります。もともと五代目市川八百蔵を襲名しましたが、天保11年4月に三代目關三十郎を襲名し、それ以降は八代目・市川團十郎や四代目・市川小團次と言った人気歌舞伎役者とも共演していました。
六代目・市川八百蔵(四代目關三十郎)
六代目市川八百蔵は幕末から明治初期に活躍した歌舞伎役者であり、本名は「關 喜兵衛(せき きへえ)」といいます。歌舞伎では実悪を得意とし、世話物や時代物をこなしていたようです。
七代目・市川中車
七代目に入ると「中車」が襲名されるようになりました。七代目市川中車の本名は「橋尾 龜次郞(はしお かめじろう)」といいます。彼は、門閥外から幹部役者にまで出世したほどの実力者であり、特に時代物の立ち役を得意としていたようです。
八代目・市川中車
八代目市川中車は、本名「喜熨斗 倭貞(きのし しずさだ)」といいます。当時、歌舞伎役者に学歴は不要とは言われてたものの、教育熱心な父親の方針により、京華商業高等学校に進学し卒業までされたようです。
現在:九代目・市川中車!本名は香川照之
そして九代目市川中車、みなさんご存知「香川照之」です。
46歳で歌舞伎界入りという異例の歌舞伎役者。しかし、『小栗栖の長兵衛』の長兵衛や『将軍江戸を去る』の山岡鉄太郎で素晴らしい演技を披露してくれました。また父と共演した『楼門五三桐』の五右衛門では、堂々たる存在感を印象づけてくれ、次第に世間に評価されるようになってきました。
九代目市川中車の本名は香川照之で間違いない
今回は、歴史ある市川中車を初代から九代目まで紹介し、本名や屋号について解説させていただきました。まとめると以下のようになります。
・初代から六代目までは、「中車」を襲名されていなかった
・六代目市川八百蔵の本名は關 喜兵衛(せき きへえ)
・七代目市川中車の本名は橋尾 龜次郞(はしお かめじろう)
・八代目市川中車の本名は喜熨斗 倭貞(きのし しずさだ)
・九代目市川中車の本名は香川照之
とても歴史ある名跡であることが分かりましたね。
九代目市川中車(香川照之)は、市川猿之助の代役として選ばれた市川團子の父親です。市川團子の力が世に認められるよう父親としてしっかり指導するのでしょうか?楽しみですよね。
今回も最後までご覧いただきありがとうございました。