“デビューを飾った生稲晃子さんは、ここからアイドル人生を…”
おニャン子クラブの会員40番としてデビューしていた過去を持ち、現在では自由民主党の参議院議員として活躍を重ねている生稲晃子さんのことを知っている人は多いことでしょう。そんな生稲晃子さんの若い頃について、アイドル活動や学生時代にどんなエピソードがあるのか気になるのではないでしょうか?
この記事では、生稲晃子さんの若い頃について、詳しく解説していきます。学生の頃からのエピソードや考え方も紹介していくため、意外な生稲晃子さんの姿が見えてくるかと思われます。
生稲晃子のアイドル時代
生稲晃子さんのアイドル時代は、主におニャン子クラブとして活躍していたといえます。1984年にホリプロタレントスカウトキャラバンの賞金に惹かれたことをきっかけに芸能活動に興味を示し始め、三次審査にて落選という結果に終わるものの、ホリプロ系列のモデル事務所からのスカウトを受けることとなりました。
その後、1986年には漫画「タッチ」のヒロイン浅倉南のイメージガールコンテストに参加するなど、精力的に活動していました。このコンテストでは落選してしまいますが、その時に居合わせたレコード会社の関係者から「おニャン子クラブ」オーディションに誘われることとなります。無事に「うしろ髪ひかれ隊」としてレコードデビューを飾った生稲晃子さんは、ここからアイドル人生を歩み始めました。
実はバレーを優先したかった
高校時代の生稲晃子さんは、実はバレーボールを優先したかったといいます。当時バレーボール部に所属していた生稲晃子さんは、腕立て100回・腹筋100回などといった非常に厳しいメニューをこなし、かなりの量のご飯を食べていたことからも部活にかける情熱が高かったことがわかるでしょう。
本当は禁止されていた芸能活動
さらに、驚くべきことに生稲晃子さんが通っていた吉祥女子高等学校では芸能活動が禁止されていました。しかし、生稲晃子さんの成績の良さや、その優秀さによって「トップの成績を維持すること」や「大学を受験すること」という条件付きで芸能活動が認められたといいます。
生稲晃子さんが優秀であり、学校側からの信頼が高かったことがよくわかりますね。特例として認められるほどの実力の持ち主であったといえるでしょう。
若い頃から今まで
学生時代からも見てとれるように、非常に勉強熱心でエネルギーに満ち溢れた生稲晃子さんは、さまざまな挑戦をし続けています。2006年に結婚・出産してからは事務所を移籍したり、夫婦で鉄板焼き屋を営むなど、無理のない範囲で活動していました。
さらに2009年には芸能事務所に復帰し、心理カウンセラーとしての活動を始め、認知行動作業療法士の資格を取得します。
2011年に乳がんの告知を受けてからは、5回の手術と治療を繰り返す苦しい生活となりましたが、無事に乗り越えると株式会社田谷の社外取締役を務めました。
そして、2022年には自由民主党からの公認を受け、参議院議員選挙に出馬することとなります。まわりの人からの支援を受け、認められてきた生稲晃子さんの活躍は多岐に渡り、非常にパワフルな人生であったといえるでしょう。
今後の生稲晃子は?
ここまで、生稲晃子さんの若い頃について掘り下げてきました。思った以上にさまざまな活動をしてきていた生稲晃子さんの、意外な一面が垣間見えましたね。
若い頃からストイックな部分は変わらず、より一層エネルギッシュな活躍が見られました。今後、政治家としての生稲晃子さんの活躍はどのようなものになるのでしょうか?
今回の記事を読むことで、生稲晃子さんの考え方についてより深く理解することができるでしょう。これからの生稲晃子さんにも注目してみてください。
今回も最後までご覧いただき有難うございました。